水曜日
ゆっくりまぶたを開いたとき、私の耳に聞こえてきたのは、聞き覚えのある、それでいて聞き覚えのない女性の声だった。
まどろみから抜け切らずにいた頭を振ってそっと屋根の下をのぞくと、高いであろうスーツをヨレさせ、警察官らしき服の人と何やら口論している女性が目に入った。
「お願いします!私一人じゃ無理なんです!」
必死に警官の腕をつかんで大声を上げる女性は、長い髪も白い肌もボロボロになっており、遠目でもわかるほどに目にクマを作って疲れ切った様子だった。それは声と同じように見覚えがあったが、見覚えはなかった。声とはまた別の理由で、だけど。
「マ、ママ…?」
接点がまともになかったとはいえ、ママの姿を見間違える訳がない。
ただ、あんなに疲れた様子で必死な姿は見覚えがなかった。警察の人が軽く頷いて離れていくと、力なく道端に座りんでしまう。そんな弱々しい姿を見せるなんて仕事で何かあったのだろうか。どこか現実味のない感覚でぼんやりと考えていると、さめざめと泣きながら母は涙に濡れた声で唇を震わせていた。
「オトネ…ごめんね…無事でいて…」
「…っ!」
間違いなくママが口にしたのは私の名前だった。
化粧もすっかり落ちて、お世辞にも綺麗とは言えないママは力なく立ち上がるとフラフラと頼りない足取りで歩き始めた。
「オトネ…」
そんなにボロボロの姿でいても、ママの目の奥からは何か温かさのようなものが滲み出ている気がした。それでも力ない身体で、簡単に猫の私でも追いつけるような速度でとぼとぼ歩くママの姿を見ていると、少しだけ鼻の奥がツンとするのを感じた。
自分でも頭が整理できていなかったけれど、自分の身体は勝手に屋根から飛び降り、ママの目の高さにある塀へと着地した。
ママは私に気がつくこともなく、小さな黒い手帳を取り出すとそこにペンを走らせる。そこには学校やお店、私の学校の先生の名前なども細かい字で大量に書かれており、そのどれもに斜線が引かれていた。
「ダメね…誰も知らない」
小さな声で独り言を零し、ボサボサな髪を軽く掻きむしったママは力なく私の立つ塀へと体を預けた。
「オトネの行きそうな場所を一番知ってるはずの私が…一番何も知らない、か」
そう力なく呟いた母のポケットから電話の音が響くと、一転して素早い速度でスマートフォンを取り出し、焦った様子で耳にあてた。
「オトネっ!?…………あ、いえ…失礼しました。…いえ、なんでもない、です」
すでにボロボロな髪の毛をまたぐしゃぐしゃと力まかせに掻きむしりながら大きく息を吐くと、手帳をゆっくりと片手でめくっていく。先ほどのページとは全く違う、綺麗で細かく書かれたそのページを眺めながら、ママは何やら仕事の話をしている様子だった。
「ええ、申し訳ありません。私はどうしても外せない用事で…他の人間を向かわせますので…。はい、失礼します」
なかば強引に電話を終えたママはしばらくそのままで息を整えていたが、やがてまた塀から体を離してふらふらと歩き始めた。
記憶にある背中よりも、はるかに小さく頼りない背中をぼうっと見ていると、何となく寂しくなってしまった。
少しずつ離れる背中を見送ってしまうと、このまま二度と会えないような気がして。
そう思った時には、塀の上を全力で走っていた。ママの隣へは一瞬で追いついた。
「マ、ママ…っ!」
「オト…っ!」
夢中になって無意識で久しぶりの言葉をかけると、ママは勢いよく顔をこちらに向けてきた。そして私と目を合わせると、疲れた顔を歪ませながらまた大きくため息を一つ吐いた。
「野良猫の声と聞き間違えるなんて…本当に母親失格ね」
自分を責めるように唇をひき結んで、薄く涙を浮かべたママに何も言えなくなってしまい、私にも自然と涙が浮かんできた。
「キミも、ごめんね。…悪いけれど、大切なひとり娘を探してるの。構ってあげられないのよ」
頭に触れられそうになった手のひら。私は一瞬で身体を引き、その手を避けた。
ぴたっと動きを止めた大きな手のひらを見ていると、また私の目には大きな涙があふれてくる。
「ママ、私だよ…ここにいるよ!」
「…ごめんなさい、野良猫だもの、警戒するわよね。じゃあね」
大切なひとり娘。初めてそう呼ばれたことが嬉しくて、大きい声で呼びかけるが今の私では猫の鳴き声にしかならなかった。
「ママっ!」
追いかけていくうちに、最初はこちらを見て微笑んでくれていた母も自然と猫の私を気にとめることもなくなっていく。
「ママっ!」
それはまるでいつもの素っ気ないママに戻ってしまったようで。
「………ママっ!」
撫でられるのが嫌だったわけじゃない。ただ、悲しくなってしまったのだ。どうして猫が撫でられて、娘の私はいつも撫でられないのだろう。
「ママ、ごめんなさい…心配かけてごめんなさい…」
必死に泣きじゃくりながら追いかけ話しかけ続けていたが、気にも止めないまま、ママはタクシーへとそのまま乗り込んでしまった。
「ママ…………っ、気がついてよ……!」
しかし、帰ってきたのは無機質な車のエンジンの音だった。力無く道端にうずくまった私は、ただ涙だけが溢れ続け、顔の毛も地面も濡らしてしまっていた。そんな時、小さな優しい鈴の音と共に軽く頭の上に柔らかい感触があった。
「そういえば。あなたはいつも、私は嫌われてるんだって言うだけで…母親を嫌ってるとは言ってなかったわね」
顔を上げるとそこには私の耳を折るように頭に手を乗せているユキさんがいた。
「ユキ、さん……………」
滝のようにぼろぼろと涙が溢れ、思わずユキさんに飛びついた。衝撃で顔が痛い。
「ユキさん…戻りたい…!人間に!ママのところに帰りたいよ…っ!」
