木曜日

ゆっくりまぶたを開いたとき、私の目に入ってきたのはうずくまって震えているユキさんの姿だった。 

慌てて身体を起こし、ユキさんの体をゆっくり手で触ってみる。すると、その体は昨日抱きしめてくれていた時とは打って変わって冷たくなってしまっていた。 

「ユキさんっ?…ユキさん…大丈夫ですかっ?」 

きっと体には良くないのだろうが、思わず心配でその身体を揺すってしまうと、ユキさんはゆっくりとまぶたを開いた。 

「あら、おはよう。オトネ。…大丈夫だからそんな揺らさないでちょうだい」 

不機嫌そうにそう呟いたユキさんは、静かに身体を起こして、いつかのようにその背中を綺麗に伸ばした。 

「オトネこそ、もっとべそべそしてると思ったけれど」 

「…昨日は、すみませんでした」 

昨日は、泣き疲れて寝るまでユキさんの体にぴったりとくっついていたのだ。さすがに迷惑だっただろうし、恥ずかしさもある。 

「もしかして…私のせいで体調良くないんですか?」
 
「別に。体調が悪いわけじゃないわよ」 

いつもより明らかに覇気のない声でそう返したユキさんは、ちらっと太陽を見てから私へと視線を動かした。 

「行くわよ」 

「…えっ?………あ、はいっ!ご飯ですね!」 

一週間近くが経ち、少しずつ猫の生活にも慣れてきた私は理解して大きく返事を返した。ユキさんについて行こうと真似して身体をストレッチしてみたが、ユキさんは綺麗な鈴の音を鳴らしながら、いつもの散歩と違いゆったりとした速度で歩き始めた。 

「オトネ。オトネのお母さんはどんな人なの?」 

それはいわゆる当たり前、普通の質問だったのかもしれない。けれど、その質問ほど難しいことはなかった。言葉を探して黙っていると、ユキさんは軽く振り返って私の瞳の奥を見つめるように真っ直ぐに視線を刺してきた。
 
「考えて。あなたの言葉で教えてちょうだい」
 
「………………はい」 

考えながら歩くため遅くなってしまう私に合わせてくれるように、ユキさんはさらに足の速度を落として横についていてくれた。 

「……そう、ですね…。仕事は忙しくて、毎日家に帰ってきてるわけじゃないので…知らないこともたくさんあります」 

「…そう」 

「あまり私のことを可愛がるような性格じゃ、ないんだと思います。お父さんが死んじゃってからは、会話もあんまりしてないです」 

愚痴っぽくならないように気をつけてはいたが、もしかしたらどこか恨み節も入ってしまっているのかもしれなかった。 

「ご飯もいっつもお金が置いてあるだけなので…作ってくれたことはないし…。昔作った時は、食べてもくれませんでした」 

そうだ。あの時作ったのは、スクランブルエッグをのせてチーズをかけたトーストだった。 
捨てたとき、卵が腐ってパンがカビだらけになったのを今思い出した。 

「…だから、きっと私が邪魔なんだと、思ってたんですけど…」 

「けど?」 

「……昨日見たママの姿が、そんなことないって言ってくれているようでした…」

話しながら、初めて見たママの姿を思い出し、また鼻の先と目の奥がじんわりと熱くなってきたのを感じる。 

「あんなにボロボロになってまで必死に探してくれているんだって…なんだか…」意外でした、と呟いてから私は思った。 
私はもしかしたら、甘え過ぎていたのかもしれない。 

ママがかまってくれないから、まわりの子がからかってくるから。それがとにかく嫌で、ただひたすらにまわりとの関わりを避けて、逃げてきた。 

野良猫はただ単に自由なわけではない。日々生きるために動いている。 生きるために必要な食事を手に入れられれば、後は昼寝をしたり散歩をしたりもするけれど。 

ユキさんと出会ったとき。 
毎日家に来てくれていた白猫と出会い、自分の話を聞いてくれると思ったとき。 
私は仲良くなりたいと思った。撫でさせてくれたりはしない気高さを持ち、綺麗なその姿にどこか憧れを持った私は、近づきたいと、そう思ったのだ。 

今までママやクラスメイトにそう思ったことはあっただろうか。 
冷たくされている、からかわれている、いじめられている。そう思って常に心を閉ざし、自分から仲良くなろうとは行動してこなかった。 
ママにトーストを作った時も、勇気が出ずにただテーブルに置いておいただけだったし、クラスメイトにからかわれている時に、やめてほしいと、一言でも主張したことはなかった。 
自分から何かを主張したのは、ユキさんと話したかった時が初めてだった。 

「後は、すみません。よくわからないです…。でも」 

足を止めるとしっかりとユキさんを見つめながら、動かし慣れていない笑顔を見せるように顔に力を込めた。 

「私の唯一のママなので…これからたくさん仲良くなって…それからユキさんに伝えますね!ママのこんなところが素敵だって、自慢します!」 

そう告げたとき、ユキさんは軽く鼻を鳴らしたかと思うと、鈴を激しく鳴らしながら急に走り出した。 

慌ててついて行こうと手足を前に前に動かして初めて、いつもと違う景色であることに気がついた。長い長い階段が目の前にあり、さっきまでの様子はどこへやら、ユキさんは軽やかに飛ぶようにその階段を上っていく。 

「ちょ、ちょっと早いです!ユキさんっ!」 

息を切らしながらそう叫んでも、ユキさんは止まることはなく、さらに私を引き離すように素早く階段を駆け上っていく。 
小さな毛皮の中の心臓が素早く鼓動を繰り返し、ようやく頂上に差し掛かったとき、ユキさんはそこに綺麗に気高くたたずみ、私を見下ろしていた。

「オトネ。あなたは笑っていなさい。ベランダで寂しそうに話している姿より、屋根を嬉しそうに飛び回ってるあなたの方が何倍も何倍も素敵だわ」 

「…ユキさん?」 

嬉しい。それはとても嬉しい言葉だったが、それを言ってくれているユキさんの姿がとてもはかなげで。太陽で反射してはっきりと顔が見えないこともあってか今にでも消えてしまいそうだった。無性に触れたくなった私が右の前足を動かしたとき、初めて聞くくらいの厳しい声でユキさんが怒鳴った。 

「動かないで!…そのままでいて」 

ビクッと前足を止めて見上げると、相変わらずその顔は見えなかったが、わずかに震えているのはしっかりと見えていた。 

「いい?オトネ。この間言ったことだけれど撤回させてもらうわ。あなたはオトネよ。その名前を捨てるなんて決してしないでね」 

「え…っ?……あ、名前…」 

野良猫なんだから嫌な名前を捨てて好きに名乗ればいい、と言ってくれたのはユキさんだった。ママのこともあって自分の名前を考えるのは忘れていたが、そんな話をしてくれていたことをぼんやりと思い出した。 

「私ね、実はユキなんかじゃないの。…というより、名前なんてないのよ。生まれた時から野良猫だからね」

「………そうだったんですか?」 

ユキさんが、突然どうしてそんなことを話し始めたのか分からなくて見上げていると、ユキさんの後ろに大きな鳥居が見えた。 

「むしろ名前なんて必要ないからいらなかったの。でも、あなたは私に言ったのよ」 

私がユキさんに?何のことだろう、と階段に座りながら考えているとクスクスと可笑しそうに笑う声が私に降ってきた。 

「覚えてないでしょうね。大したことでもないし」 

ユキさんは自身の前足でゆっくりと顔を洗いながらその笑顔を隠していた。 

「白猫さんは、雪みたいで綺麗だよねって。あなたは美味しくなさそうにおにぎりを食べながら、あのベランダでそう言ったわ。だから、私はユキって名乗ったの」 

「…そうだったんですか…」 

「みんながそう呼ぶなんて嘘よ。私のことをユキだって思ってるのは、世界でオトネだけなのよ」 

何となく近づきたくなって、怒鳴られないようにそーっと前足を動かしてみると、ユキさんは何も言わなかった。 

「それだけじゃないわ。あなたは、私の宝物なんだって言いながら、汚いしっぽにこの綺麗な鈴をつけてくれたわ」 

しっぽを自身の手元に寄せると、ユキさんはどこか幸せそうにその鈴を手のひらで転がして音を立てた。
 
「野良猫なんてね、素敵なものじゃないのよ。一人で生きて勝手に死んでいく。誰にも気にされずにね。毎日雨や土に汚れて生きているのに、あなたは綺麗だって言って…宝物までくれたのよね」 

ゆっくりゆっくり近づいていくと、ユキさんはとても幸せそうに笑いながら、なぜか少し震えていた。
 
「そんなの、好きになっちゃうでしょ」 

近づいた私の顔に急に前足を乗せたユキさんは、それ以上近づけさせないように力を込めて私をおさえていた。 

「でもね、あなたはやっぱり猫じゃないの。このまま生きていてはダメ。……戻るのよ、あなたを待っている家族がいるんだから」 

「……でもっ!…ユキさんも一緒がいいです!」 

ママの元へ帰りたいというのは今や確固たる思いだ。でも、ユキさんを置いていくことはどうしてもできなかった。 

「ユキさんがいなかったら、私…笑っていられません!ユキさんが全部教えてくれたんです!ママへの思いも、自分自身のことも!」 

顔に乗せられた前足を振り払うと、地面をぎゅっと握りしめながら私は大声を張り上げた。 

「最初に猫になった時…とても心細くて。人間の時から、私にかまってくれる人なんていませんでした…ずっとです…。でも、ユキさんはずっと待っててくれた!私が猫になって屋根に登るのにモタモタしてる時も、人間の時、毎日辛くてベランダで一人でご飯を食べている時も、ずっとユキさんがいてくれた…!」 

毎日辛くて真っ黒だった日々に、真っ新で綺麗な白色が飛び込んでくれることがどれだけ幸せだったことか。叫び続ける私の声が涙に濡れ始めても、ユキさんはじっと私を見下ろしているだけだった。 

「ユキさんに言われて初めて飛び上がってみたら、とてもとても高く飛べました。その景色がとても綺麗でした。…私が見ていた、ちっぽけで真っ黒な世界を見下ろせるくらいに。ユキさんがいなかったら、知らなかったことです!」 

だから。
 
「だから…一緒にいてください!」

初めて必死になって願った。 

ママに自分の話を聞いて欲しいとも、クラスメイトにいじめるのをやめて欲しいとも言ったことはなかったけれど、ユキさんが離れてしまうことがどうしても耐えられなくてそう叫んだ。 

「言ったでしょ。私がユキなのは、あなたがいたから。私は、あなたのために存在するの。…でもね、あなたにはもう白猫という逃げ場は、いらないでしょう?」 

ユキさんの雪のように冷たい言葉が、私を貫いていく。ほんの一段の階段の差がとてつもなく大きく感じられ、私は動くことができなかった。
 

「簡単よ、屋根に登るくらいにはね。…ほんの少し勇気を出して。ほんの少しだけ行動してみたら、あなたを包む世界が変わったんでしょう?」 

「…はい…」 

「真っ黒っていうけれど…あの時太陽に反射してきらめいていたあなたは真っ白だったわ」 

「…」 

「あなたがそんなに白くて綺麗だから、周りは少し黒く見えちゃうわよね。だから、お願い。あなたの白さをまわりに分けてあげて」 

「……はい…」 

私はいつのまにかまた昨日のように、大粒の涙を流して泣きじゃくっていた。 

「あなたと出会えてよかったわ。…次また会えるなら、また笑ってちょうだいね」 

「……ユキさんっ…!」 

泣きながら走って飛びつくと、ユキさんはヒラリと身をかわして階段を登りきった。あっという間にその姿は見えなくなってしまい、鈴の音だけが遠くに響いていった。慌てて私も階段を登りきり走り出そうとするが、足がもつれて思い切り転んでしまう。 

「いたっ…!」 

石造りの床に脚をぶつけ、痛みが走る。 

ジンジンと痺れる足を見てみると、そこには擦りむけて血が流れるひざ小僧が目に入った。 

土に汚れたスカートの下に。それは、確かに人間の皮膚だった。 

「オトネ…?」 

その声に顔をあげると、そこには昨日見た格好のままで、神社の方から歩いてくるスーツ姿のママが立っていた。 

その瞳はしっかり私を捉えており、私が目を合わせた時にはうるおいがたまり、ゆっくりと涙が一筋頬を伝い落ちた。 

「オトネ!」 

「マ…!」 

全て言い終わる前に私は、ママの腕にきつく閉じ込められていた。ぎゅっと私の服を握りしめる手は震え、耳元には涙を流しているママの嗚咽がとても大きく響いている。 

「ママ…ごめんなさい、心配かけて」 

母の温もりは、擦りむいたひざの痛みなんて忘れてしまうほどにあたたかく、そして幸せという気持ちをじんわりと心の中に湧き上がらせてくれた。 

「…オトネ…無事でよかった…!」 

「ママの方が、無事じゃないよ……」 

この二日で枯れるほどに泣いたはずだったが、私の目の奥からは、まだまだ熱い涙が零れ落ちてくる。 

私を抱きしめたまま離さないママの髪の毛をそっと肉球の無い手で触れてみると、ゴワゴワとした感触で、お風呂に入れなかった私の猫毛よりも汚れていた。 

それでもママの匂いはとても心地よくて、その髪の毛をきゅっと握りしめながらその身体へと顔を押し付けた。

1000


(つづく)