✳︎注意 性的な表現が含まれます。苦手な方は閲覧をお控えください



高校の玄関で四人の女子高生がめいめいに靴を履き替えている。学校指定のハルタのローファーを履いているのは一人だけで、ニューバランスのスニーカーやコンバースのオールスターなど、外履きに履き替えたみんなの足元は色とりどりだ。ナイキのエア・ジョーダンを履いた子だけが、スチールロッカーにわざわざダイヤル式の南京錠をかけている。学校ではエア・ジョーダンの盗難騒ぎがあったばかりだった。

爪先をトントンやりながら、エア・ジョーダンを履いた彼女は自慢げな愚痴、みたいないつもの喋り方で話の口火を切った。

「実は昨日さぁ、鈴木に告られたんだよね」

「え、鈴木!?って野球部の?まさかオーケーした?」

ニューバランスの少女が真っ先に反応した。

「まさか!だってちょっと生理的に無理じゃん」エア・ジョーダンは語気を荒げて否定する。

「あぁ、わかるわかる、生理的に無理」コンバースも後に続き、
「ね、無理でしょー?」エア・ジョーダンは再び嫌悪感いっぱいの声を出した。

「無理ぃーーーー!」

面白がって連呼する三人の甲高い笑い声が、放課後の校舎に大きく反響した。
ローファーの彼女がようやく内履きを下駄箱にしまって、みんなに追いつく。彼女は鈴木という、隣のクラスの男子のことを思い浮かべてみた。頭が丸坊主で年中浅黒く日焼けしている、平均的な野球部員。別段おしゃれなわけでも顔がいいわけでもない。

あぁ、あの人か。

ローファーの彼女は、鈴木のチクチクした坊主頭に思いを馳せた。

「あのチクチクは良くないね」彼女は言った。

「ね。坊主ってないわ」エア・ジョーダンがうんざり首を振る。

「でもあたしヒゲ坊主は好き」とコンバース。

「いやいや、ヒゲ坊主と坊主って全然別物だから」

ローファーの彼女は内心、でも鈴木よりあの人の方が、みんなにとっては何倍も“生理的に無理”なんだろうな、と思った。

玄関を出て正門を抜けたところで、彼女はいきなり、

「あ、迎え来てるっ。あたし行かなきゃ。じゃあね!」

と叫び、みんなに手を振って、白いセダンの方へ走って行った。
残された三人は、また彼女が親の送迎付きであることを恨めしく言い合った。こういうことが、週に二度ほどあるのだ。

「たまにはうちらを駅まで送ってくれてもいいじゃんね、なっちゃんの親」

「ほんとほんと」

「ねえ、あれって、なっちゃんのお父さんじゃない?」

運転席に座る男のシルエットが見えた。

「あ、ほんとだ。お父さんだ。なんでお父さんが来てるの?」

「ね。会社行かなくていいのかなぁ」

「ね~」

三人は、彼女の家庭のありもしない複雑な事情を、あれこれ推測しながら駅まで歩いた。
お父さんがリストラにあって娘の送迎くらいしかやることが無いとか、代わりにお母さんが働いてるとか。

「美容師とか看護師とか、女が手に職持ってると、ヒモみたいになっちゃう男もいるって、うちのお母さん言ってた」

コンバースの子がそう言うと、
「えーなにそれぇー」
あとの二人は高らかに笑った。
そんなしみったれた現実、あたしたちには関係ないじゃんと言っているような、そんな笑い方だった。


車に乗り込んだローファーの少女は、助手席でスカートをばたばた扇いで、脚に冷房の風を送っていた。五月には時々、季節外れに暑い日がある。

「はしたない」

運転席の男が柔らかい口調で咎めた。
男はスーツの上着を着たまま、ネクタイをだらしなく緩めている。体はそれほど大きくないが、お腹回りには貫禄がつき始めていた。なにより目を引くのはそのおでこだ。顔つきが若いわりに思い切りよく禿げ上がっているので、年齢が特定しにくい。若いといえば若いが、女子高生にとったらオヤジ以外の何者でもない。

彼女の行儀の悪さを叱りながら、男の目は太ももに吸い寄せられている。彼は罪悪感を振り払うように、気まずそうに照れ笑いした。
そういう男のはにかんだ顔を見て、彼女はむくむくと嬉しくなる。男のこういう表情は、彼女のサービス精神を大いに刺激した。

「ねえねえ、見て見て~」

彼女はもう少しだけスカートの裾をあげた。パンツが見えそうで見えない、ギリギリのところまでたくし上げる。白くて柔らかそうな二本の太ももが、ぴたりと閉じられている。

「運転中だからヤメて」

気弱そうな男は、眉をへの字にして困っている。こういう状況で嬉々として誘惑し続ける彼女に、いつも手を焼いているのだ。

「ねえ、おでこ触っていい?」

唐突に彼女が言った。

「あとで」

「なんで――――」

彼女は下唇を尖らせる。不機嫌そうな顔はいっそう子供じみて、駄々をこねているようだ。

「危ないでしょ」

男はたしなめるように言う。
しかし信号待ちの間に彼女は、ぴょんと跳ねるように彼のおでこへ手を伸ばした。

「痛っ」

弾みがついておでこを叩く格好になった。
痛がる男を見て、彼女はきゃっきゃっと無邪気に笑っている。彼のおでこに手形をつけるようにして触った手のひらは、皮脂でぬらぬらと光っていた。それを太陽の光で反射させてしげしげ見ると、両手に擦り付けて油を伸ばし、パーに広げて男に見せた。

「ハンドクリームのかわり」

きひひ、といたずらっぽく笑う。
学校ではマイペースで冷めている方だが、彼の前だとテンションが上がって、自分でもどこからこんなエネルギーがわくのか不思議なくらい元気になった。子供のように天真爛漫に振る舞い、気ままになり、エキセントリックになって、おかしなことをしては一人で喜んだ。



国道沿いにあるラブホテルに入る。
部屋を選びエレベーターに乗ると、彼女は手を伸ばし、彼のおでこから頭にかけてをぺたぺたとやさしく撫でた。彼のおでこは完全に禿げ上がっているので、髪がある人を撫でるようにはいかない。地肌を撫でるわけだから、もっと慎重に、優しくする必要がある。髪のない頭というのはデリケートで、センシティヴだ。制服姿の女子高生が、サラリーマンの禿げ頭をよしよしと撫でている姿が鏡に映る。

部屋に入るとすぐに彼女は制服を脱いだ。白いブラジャーを水色のしましまパンツ、ソックタッチで留めたルーズソックスを脱ぐときは、べりっと糊の剥がれる音がした。
彼女が下着だけの格好になると、彼はようやくちょっと落ち着いた感じになった。それまでは未成年の女の子を連れ歩いている罪悪感もあったし、人目も気になるので、素っ気無い態度だったのだ。
着ているものを脱いだ彼女は完璧に無防備になって、彼にとってはその状態が心地良かった。

彼はスーツを着たまま、下着姿の彼女をいきなり抱きしめた。力いっぱいぎゅうっと。自分よりも小さな女の子をすっぽりと覆ってしがみつく姿は、まるで食虫植物が、封じ込めた虫からじわじわと養分を吸い出しているよう。チュウチュウと、若い彼女の豊富な栄養を吸い取っているようだった。
しかしこういうとき彼女は、不思議と、なんともいえず嬉しい気持ちになった。自分が誰かに求められ、誰かの喜びになっていることを、直に感じられるから。男は彼女を抱きしめたままホックを外し、ブラジャーがはらりと床に落ちた。彼女の体は平坦で、どこにも膨らみがなく、青々として、いかにも硬そうだ。

男は休憩時間いっぱいかけて、抑え込んでいた欲望を一気に噴き出させるように彼女を抱いた。自制心のストッパーが外れたような、剝き出しの性欲だった。ハアハアと荒い息づかいで彼女の体を這いずり回るように撫で、べろべろと味わうように舐める。あらゆる場所に舌を這わせ、こそばゆくて彼女は身をよじり、くすくす笑いのような喘ぎ声を小さくあげた。

挿入すると彼は完全にたがが外れ切って、動物そのものになった。人間が人間である理由を失ってしまったような変な声を出して、体中で感じていた。禿げた頭、昇天したような情けない顔、締まりのなくなった中年の肉体の、薄くたるんだ皮膚の感触。彼が本性を剝き出しにしている様をちらちらと薄目で見る彼女は、なぜだかそれを、おぞましいとは思わない。

この人のことも、みんなは生理的に無理って思うのかなぁ。
佳境に入ったセックスのさなか、彼女はぼんやりそんなことを考えている。

彼女は生理的に無理という感覚が薄かった。一般的に女性が、ハゲやデブを毛嫌いする気持ちは何となくわかるが、わかるだけで、それだけの理由で自分も彼らを嫌う気持ちにはなれなかった。むしろそれは母性のわくチャーミングな欠点として彼女には映った。

ふわふわの髪がない頭は普通、抱きしめて撫でたいとは思わないものだろう。犬や猫が愛される理由も、あのふわふわの毛にある。思わず撫でて、お腹に顔を埋めたくなるような。
髪の薄くなった頭はべたついて見えるし、実際それは驚くほど脂っぽい。てらてらと光っている。だから普通の神経なら、手のひらで撫でたいとはあんまり思わない。撫でられない。
そんなのってあんまりだと、彼女は思う。彼女は禿げて生理的嫌悪の対象になった男性を見るときゅうっと胸が痛んで、優しく撫でてあげたくなるのだった。

射精してしまうと男は我に返った。枕元に置いた携帯を手に取り、ディスプレイ画面の明かりで顔が照らされる。

「やべ、もう出なきゃ」

男はベッドから起き上がり、ズボンに脚を入れた。
彼女は布団をかぶりながら、足でまさぐリブラジャーを探り当てる。のろのろした不器用な動作でブラジャーをつける彼女に、彼はぶっきらぼうに「これ」と言って、一万円札を差し出した。
援助交際の時代だった。
男は当然そのつもりで、彼女を選んでいる。

「いらないよ」

彼女はブラジャーのホックを掛けようと後ろ手になったまま、それを断った。男は顎で何度も小さく頷いて、そそくさとお札を財布にしまう。彼女は毎度繰り返されるこのやり取りが、一番嫌いだった。

帰りの車の中は静かだ。彼女はもう無邪気にはしゃいだりしない。まるでおままごとで夫婦を演じていた男の子と、遊びの外では気まずくなる感じ。

「今度はいつになりそう?」沈黙を破って彼女が訊く。
彼女はポケベルもPHSも携帯も持っていないので、男の仕事の都合がついたとき、車を高校の前に止めて待つ段取りだった。

「ちょっとわかんないな。もしかしたらもうないかも」

「え?」

彼女は驚いて彼の顔を見る。
男は、人間らしい感情を全部押し隠したように、冷たい無表情だった。さっきセックスしていた時の、可愛らしい動物は一体どこに行ってしまったんだろうと、彼女は寂しく感じた。

「俺、今度お見合いするから、うまくいけばその人と付き合うし、結婚もするから」

「え?」

彼女の心臓はハムスターのそれのようにせわしなく打った。

「俺もう三十八だから、親に無理矢理セッティングされちゃって。けどまあいい機会かなって。今の会社、結構安定してるし」

彼女は彼の年齢を初めて知った。三十八歳。その年齢がなんだというのか、まるでピンと来ない。彼女はあまりにも若すぎて、二十一だろうが三十八だろうが、自分とは何の関係もない年齢という意味では同じに聞こえた。

「じゃあ、ここでいい?」

家からも駅からも遠く離れた、いつもの場所で車を降ろされた。
ドアを閉めるとき、窓ガラス越しに彼を見ると、その目はすでに逸らされていた。彼は逃げるように車を発進させる。道路を走る車の流れに飲み込まれ、一瞬で遠ざかった。

あの頭を、あたしみたいに慈しんで撫でるような人が、お見合いなんかで見つかるわけないのに。彼女は自信に満ちた気持ちで思った。体裁を整えるために年齢のイメージに縛られるなんてバカバカしい。三十八歳だからといって、三十八歳らしい人生を送らなくてはと思っている彼を、心底気の毒に思った。なんて凡庸。世俗すぎて、こっちが悲しくなる。

けれど彼女はふと気づく。もしも彼が、人生に適度な束縛を欲しているのだとしたら。もしも彼が、あのつるつるに禿げた頭を優しく撫でられることを、それほど求めていないのなら。
彼女の体からしゅるしゅると力が抜けていく。車が行き交う県道沿いの歩道を、とぼとぼと歩く。歩きながら彼女は考える。確かに彼への気持ちは恋ではなかった。ただ、誰にも相手にされないような可哀想なハゲおやじのために、何かしてあげたいという献身の気持ちがあっただけだ。
つまりそれは愛だと、彼女は思う。あたしはハゲおやじを愛していたんだわと思うと、彼女は深く傷ついた。

歩きながら人生で一番大きなため息をついたが、その声は車の排気音に、きれいさっぱりかき消された。ローファーの踵が鳴らす素敵な靴音も、エンジンがうなる音で聞こえない。帰宅ラッシュの県道は、ヘッドライトの強い光がびゅんびゅんと無感情に溢れ、轟音が響いている。車が一斉に赤いブレーキランプを光らせる様を、ナウシカに出てくる王蟲みたいだと彼女は思う。忙しなく淀みなく流れる車。十八歳以上の大人たちの世界。社会。その機械的な流れの真横、ほとんど人通りのない歩道を、交通手段を失った彼女はとぼとぼと歩く。家ははるか遠い。

赤信号で立ち止まると、彼女の隣に自転車が滑り込んだ。ちらりと目をやると、同じクラスの椎名くんだった。高校名の入った巨大なスポーツバッグを斜め掛けしている。サッカー部の練習が終わったところだろう。
教室で話したことはないので、お互い同級生であると気づいても、声はかけなかった。気詰まりな時間が流れ、青信号になると椎名くんは自転車を漕いでさーっと行ってしまった。

あの自転車の後ろに乗せてくれたらいいのに、と彼女は思う。そうしたら、この傷ついた気持ちが、ちょっとは慰撫されるかもしれない。あんなにハゲ頭を撫でていたのに、彼女の頭をそうやって撫でてくれる人は誰もいなかった。
いまこのタイミングで、あの自転車に乗せてくれたらなぁ。

彼女は頭の中で、椎名くんがブレーキをかけて自転車を止め、彼女が後ろに乗るまでじっと待っていてくれるところを想像した。彼女はうつむいたまま静かに腰を荷台に乗せて、女の子らしく横座りする。ぎゅっと椎名くんの細い腰に腕を回し、ここぞとばかりに密着して抱きついて、ちょっと泣かせてもらうのだ。椎名くんは理由も訊かず、背中が涙と鼻水で汚れるのも気にせず、黙って自転車を漕いで、彼女をどこか遠いところまで運んでくれる。夕方の児童公園とか、マクドナルドの二階とか、コンビニの駐車場とか、心落ち着く場所へ。

そんなことを思いながら信号を渡り切り、彼女が顔をあげて前を見ると、椎名くんの姿はもうどこにもなかった。彼女は別にがっかりなんてしなかった。男の人がそんなに都合良く、女の子の頭を優しく撫でたりなんかしないってことを、彼女はもう、嫌というほど知っていたのだ。

(了)

IMG_3897